◆マルゼンスキー 6代
マルゼンスキー6


◆マルゼンスキー 9代
マルゼンスキー9


[6代血統表とその活用方法]

朝日杯3歳Sなど8戦8勝の快速馬マルゼンスキーは「5代多重クロス」馬である。すなわち、

Menow 4×4
Bull Dog 5×5
Blue Larkspur 5×5

このように「5世代以内に3種類以上のクロス」を内包する「多重クロス馬」は基本的にスピード馬が多い。また、場合によると気性も激しくなりやすいが、クロスにより精神的活力が高まるからだと思われる。

この場合、大切なことは、その両親が5代内にとの程度のクロスを持っているかだが、マルゼンスキーの父 Nijinsky も、母シルも5代目に薄目のクロスを持つだけの、あまりアクの強くない配合馬であり、そういう両親から強いクロスを生み出す方向性は配合のセオリーの一つと言える。逆に、強いクロスを内包する両親からの、さらに強いクロス派生は避けたいところだ。

それを一目で判断できるようにしたのが「自身」「父」「母」の5代血統表を3枚並べた「6代血統表」である。例えば、強いクロスを持った両親からは「アウトクロス」を志向したい、という即時的な判断が可能だ。

なお、参考までにマルゼンスキーの9代クロス解析においては、以下のことがポイントとなるだろう。

1.Bull Dog=Sir Gallahad 5・7×5など8種類の「同血馬」クロスを内包すること
2.クロス集計表の6世代目に17個の、やや多めのクロスが派生していること
3.父系または母系に、特に「異系」のクロスのプールを持たない「緻密型」であること
4.つまり、スピードが豊富だが、距離延びての踏ん張りには懸念が残る。(マルゼンスキーは長距離未経験)


◆マルゼンスキーは、どんな馬なのか◆

[Wikipedia より抜粋]

マルゼンスキー(1974年5月19日 - 1997年8月21日)は日本の競走馬、種牡馬。

イギリスの三冠馬・ニジンスキーを父にもち、1976年に中央競馬でデビュー。3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスを大差でレコード勝ちするなど連戦連勝を続けたが、当時多くの競走で出走制限が課された外国からの持込馬だったことから、クラシック三冠競走には出走できなかった。無敗のまま1977年末に故障で引退。通算成績は8戦8勝。1970年代に起きた外国車ブームの中で「スーパーカー」の異名を冠された[1]。種牡馬となってからは1988年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬サクラチヨノオーなど中央競馬で4頭のGI優勝馬を輩出。1990年にJRA顕彰馬に選出された。


出生までの経緯[編集]

1973年秋、北海道胆振支庁の軽種馬農協青年部がアメリカへの研修旅行を計画したが、直前になってひとり欠員が出て予算に狂いが生じるおそれが出たことから、青年部は牛の仲買人でありパスポートを保持していてすぐに参加が可能であった橋本善吉[注 1]に同行を依頼した。橋本は少年時代に馬の牧場で10年働いた経験をもち[2]、馬主としてばんえい競馬の名馬・マルゼンストロングホースを購買し競馬の世界に進出したばかりだった[3]。かねて競走馬生産にも着手したいと考えていたことから、橋本はこれを好機と捉えて参加を決定。日程の中に希望者のみのオプションとして組まれていたキーンランドセールに参加した際、調教師の本郷重彦とも知り合った[2]。

橋本と本郷はセール会場において、アメリカの殿堂馬・バックパサーを父に、14勝を挙げたクィルを母にもつ繁殖牝馬シルに目をつける。両者ともその馬体の良さを高く評価し、本郷は「こんなに皮膚のいい馬には生まれてはじめてお目にかかった。小柄だけどバランスがいいし、これは良い馬だ」と感嘆していた[2]。シルはイギリスの三冠馬・ニジンスキーの子を受胎しており高額が予想されたが、本郷の強い勧めもあり橋本は競りに参加[2]。フランスの調教師と競り合った末、このセールで3番目の高額であった30万ドル(約9000万円。当時)という価格で落札に成功した[2]。現地の酪農業界誌には「有名な日本のウシ屋の橋本氏が、とてつもなく高額なウマを買った。どうやら気が違ったようだ」と紹介されていたという[2]。

生い立ち[編集]

のち日本へ輸送されたシルは、1974年5月19日、牡馬を出産。橋本は自身の屋号「丸善」からとって牡馬ならば「マルゼンスキー」、牝馬ならば「ミスマルゼン」と名前を考えており、前者に決まった[2]。報せを受けて東京から馬の検分にきた本郷は、第一声で「外向だなあ」と口にした[4]。前脚が膝下から外に曲がっており、正面からみるとV字になるような形を「外向肢勢」といい、マルゼンスキーはそれに該当したのである[5]。しかし全体としては好馬体をもっており、橋本も本郷もその点では高評価を下した[4]。往年の名騎手であった田中康三も本郷の息子・一彦に「あれは走る」と話していたという[6]。また、橋本と同じ競りに参加し、25万ドルの手前で降りていた社台ファーム代表・吉田善哉が、息子の勝己(後のノーザンファーム代表)を伴い「庭を見せてもらいにきた」と口実をつけて、マルゼンスキーを見に来ていたという[2]。

産後10日目から橋本は新聞と雑誌に広告を出して一株300万円を40口・総額1億2000万円のシンジケート会員を募集し、1カ月で満口となった[2]。しかしそれからおよそ2カ月後、ニジンスキーの初年度産駒として評判が高かったニジンスキースターがデビュー戦で12着と敗れたことで会員の離脱が相次ぎ、最終的にシンジケートには8人しか残らなかった[2]。また、「外向」は成長につれて度を増していき、やがて「脚曲がり」と陰口を叩く者が出るほどひどいものとなった[4]。変形の脚部は強い調教に耐えられない可能性が高く、これを見た少なくない者が「良い馬だが、競走馬には仕上がらないだろう」という見解を述べた[5]。そうした一方で、馬術部出身で育成調教を担当していた橋本の息子は、「この馬は跳びも大きいけど、伸びた後脚を戻すのがものすごく速い」と感嘆していたという[3]。

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【主な機能】
・5代血統表の作成、出力
・5代血統表の配合シミュレーション
・6代血統表の画面表示、出力
・8代血統表の画面表示、出力
・9代クロス解析表の画面表示、出力
・蓄積データ21万頭
・JRA-VAN Data Lab. 対応

・販売価格 30万円


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