2020年08月

レコードタイムその2◆沢田準の競馬を楽しく

週刊競馬ブックでは中央平地の各競馬場のレコードタイムの一覧表を時折掲載している。

これを見るといろいろと興味深いことが見つかる。

まず一覧表の外にJRAレコードとして三つのレコードが記載されている。東京芝2300メートル、東京ダート1600メートル、東京ダート2100メートルだ。

これらはそれぞれ一覧表にももちろん掲載されているがJRAレコードとして記載されているタイムより遅い。

これは東京競馬場のトラックの改修のためレコードタイムが更新されたが、この三つのレコードより早いタイムがまだ出ていないということだ。

前回に触れた盛岡の1200ダートのがJRAを上回っての日本レコードであることに似ている。

この表の中には現在はレースが行われていない距離がある。中山の芝1400、芝2600、芝3200、函館と福島の芝1700などだ。

中山の芝1400以外は現在はこの距離のレースは行われていないがコース図にはスタート地点が書かれているから、将来レースを行うことがあるかもしれないということだろう。

中山の芝1400は比較的新しく作られた距離だがスタートしてすぐカーブであり危険ということで使われなくなった。コース図からも消えてしまったからレコード表から消してもいいのではないだろうか。

馬は昔より早くなっているからレコードはどんどん更新される。従ってレコードが生まれた日付は近年のものだ。

しかし中にはかなり古い日付のものがある。その多くはレースが近年には行われていない距離だ。たとえば中山のダート1700は1976年6月だがこの距離のレースは行われていない。

だが中には頻繁に行われる距離でありながら更新されない古いレコードがある。

小倉の芝1200はアグネスワールドが1999年7月に出した1分6秒5だ。まだ北九州記念は1200ではなく北九州短距離ステークスで出したものでこれは日本レコードでもある。

函館の芝2000は1988年8月のサッカーボーイの1分57秒8。はるかに昔のことでありサッカーボーイの偉大さがわかろうというものだ。

なかでも驚きなレコードは中山ダート1800だ。キヨヒダカの1分48秒5。なんと1983年1月、40年近くも前に作られたのである。

中山のダートは1200と1800がほとんどだ。中山ダート1800はJRAではもっとも使われているかもしれないポピュラーの距離で重賞もある。

その距離でレコードが長期にわたって維持されているのは全くの例外的なことである。



◆沢田準【競馬を楽しく】
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「Go Toなかったら大変なことになっていた」官房長官TV発言に根拠なし



田中龍作ジャーナル
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2020年8月25日 18:44

無難な答えを求めて互いの顔を見つめ合う観光庁官僚。=25日、衆院第4控室 撮影:田中龍作=

 百害あって一利なし。批判の多いGo Toについて菅官房長官が「なかったら大変なことになっていた」とテレビ朝日の報道ステーション(21日放送)で発言した。

 信じた国民は少なからずいるだろう。ところが官房長官はデータに基づくことなく発言していたのだ。きょう25日、開かれた野党合同の対政府ヒアリングで明らかになった。

 大串博志議員(立憲)は、菅官房長官の発言の「根拠は何でしょうか?」と政府側に尋ねた。

 返答に窮した観光庁(国交省)の官僚たちは、お互いの顔をしばらく見つめ合った。沈黙の後、奈良和美参事官が「菅官房長官の発言につきましては、のべで200万人泊と仰られたものと承知をしております」と答えた。

 200万人泊とは7月27日から8月13日までの18日間、GoToを利用した旅行者の延べ人数だ。

 観光庁によれば、例年の国内旅行客は1ヵ月で4千万人泊だ。

 1ヵ月と18日とを単純に比較できないので、日割りにすると、GoToの場合1日=11万1,111人泊。例年だと1日=133万3333人泊。

 政府が金を補助しても旅行者は例年の10分の1にも満たないのだ。



 原口一博議員(国民)が念を押すようにして尋ねた。「国交省から菅官房長官にはデータを上げてないんですね? データなしでアテズッポで言ったということですね?」

 別の官僚が「旅行会社の積み上げで200万人以上ということを(官房長官に)報告させて頂いている」と答えた。

 大串議員は「200万人泊というのは『GoToがなかったら大変なことになっていた』を救った数なのか?」と尋ねた。

 官僚は「主な旅行会社からの聞き取りの結果を踏まえて200万人以上と報告させて頂いた」と繰り返した。苦し紛れだった。

 川内博史議員(立憲)が「旅行会社にヒアリングしたということだが、口頭か書面か?」と追及した。

 官僚たちはスマホをひたすらいじった。観光庁のHPをググっているようだった。だが、結局、答えきれなかった。


     中小零細業者にまったく恩恵なく

 きょうのヒアリングでは杉尾秀哉議員が「旅行会社がツアーで送り込むような所(宿泊施設)は恩恵があるが、我々、中小零細業者にはまったく恩恵がない。(GoToは)意味がない」とする業者の声を紹介し、政府を追及した。

 観光庁は「制度がまだ使いづらいという声があり、コールセンターを拡充するなどして…」とピント外れの答弁でかわそうとした。

 杉尾議員が「そういう問題じゃないんです。そもそも政策の方向性自体が間違っているんです」とピシャリ。

 利権のために間違った政策を無理やり進める。無謀な戦争に突き進んだ歴史が繰り返されている。

      ~終わり~




◆青木義明【競馬一直線】
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れいわ関係者とみられる人物から文書が送られてきた ~その1



田中龍作ジャーナル
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2020年8月23日 00:23



 M.Aと自称する人物から田中のもとに文書が送られてきた。内容は詳細を極めており、当事者のみぞ知る事実が濃密に詰まっていた。

 確認を取る際、自称M.A氏に「『内部告発』としてよいか?」と聞くと、氏は「その言葉を使うとモグラ叩きが始まるので控えて頂きたい」と答えた。以下自称M.A氏の文書を転載する。(記事中太字部分は田中)?

 8月12日、れいわ新選組・山本太郎代表のYouTube動画を見て唖然とした。山本代表が社会人の常識的な感覚からかなりかけ離れていることが明確に分かったからだ。

1、当初の規約について

22日、れいわ新選組は総会を開いて規約の一部を改正したというが、当初の規約がズサンだった

① 毎年行われる総務省への収支報告だが、れいわ事務局は、総務省に何度となく足を運んでいる。れいわ事務局が総務省に届け出をしても、総務省は受け取りを断っている。規約に会計監査の規定がなかったからだ。

② 慌てた事務局はすぐに「会計監査の追加の規約変更」を構成メンバー宛に送っている。

③ 常識ではありえないことだ。「会計監査の規定」がないことに気付かない沖永事務局長の思考を疑わずにいられない。

④ 7月16日、大西つねき氏の除籍の扱いを決める総会が開かれた。会議は初っ端から約1時間も すったもんだ をやったらしい。除籍を決める手続きの詳細がなかったためだ。当日示された事務局案に対して議論が百出したのである。

 除籍は極めて重い決定だ。常識的な組織であれば、どこから異論が出ても揺るがないように規則が定められている。

次回は、「言論引き締め」と「ダダ漏れ」が同時に起きている れいわ内部の混乱を紹介する。

紛糾した総会。規約が普通であればここまで混乱しなかった。=7月16日、参院会館 撮影:小杉碧海= 

   ~つづく~





◆青木義明【競馬一直線】
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渡哲也さん 吉永小百合との恋、結婚が許されなかった理由


2020年8月21日 7時5分


 俳優の渡哲也さんが8月10日、肺炎のため亡くなった。78才だった。渡さんの体調が急変したのは8月9日未明のこと。午前4時に緊急搬送された。緊急搬送前に渡さんと会った知人はこう話す。

【写真】渡さんと妻・俊子さんの貴重なツーショット

「渡さんは、最期の苦しむ姿を石原軍団の人たちには見せたくなかったんじゃないかな。肺気腫の症状がかなりつらそうで、『肺が左右両方潰れているみたいだ』と聞いた。でも、肺が機能しなくなっても最期まで、俳優・渡哲也の風格を失っていませんでした」

 渡さんは長年、肺気腫を患っていた。医療ガバナンス研究所理事長で内科医の上昌広さんが解説する。

「肺気腫とは、肺の中にある肺胞が壊れてしまっている状態です。空気を吸って吐く際には、この肺胞が伸び縮みしますが、機能しなくなると、濁った空気を体の外に出せず、新鮮な空気を取り入れることができなくなり、息苦しくなってしまうのです」

 肺が両方とも潰れる──この状態になると、生活はどう変わってしまうのか。

「肺気腫で両肺が潰れるというのは、かなりの重症です。全速力で走った後のような息苦しさが続き、酸素吸入器が必要になる。最期は肺炎で亡くなったということで、空気のないところで呼吸をするような苦しさがあったのかもしれません」(前出・上さん)

 渡さんは若い頃から、病魔に蝕まれていた。1972年、葉間肋膜炎。1974年、胸膜癒着症で大河ドラマ『勝海舟』を途中降板。1975年、肺感染症。その後、体調は回復したかに見えていたが、1991年に直腸がんの手術の結果、人工肛門での暮らしとなり、2015年、急性心筋梗塞。2016年には、肺気腫や喘息などのため、酸素吸入器をつけて生活していることを明かしていた。

 この長く続く闘病の間、ひとときたりともそばを離れなかったのが妻の俊子さんだ。ふたりは、青山学院大学在学中に知り合っていた。

「渡さんは空手部に在籍していましたが、その渡さんが一目惚れしたのが、大手鉄鋼会社役員の娘である俊子さんでした。結婚式は1971年にハワイで、ふたりだけで挙げています」(芸能関係者)

 学生時代の恋愛を貫いての結婚。しかし、正直者すぎる渡さんは婚約会見で、こんなことを口にしていた。

「ほかの女性に目移りしたこともありました。別れ話も二、三度ありました。浮気も多分、これからも多少…」
手編みの座布団

 そういう時代だった、と言えなくもない。しかしこのとき、渡さんの頭には、昭和を代表する、ある女優の姿が浮かんでいたのかもしれない。

《夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか》

 3年前に亡くなった渡さんの弟の渡瀬恒彦さん(享年72)が待つ天国へ旅立った渡さんを、独特な表現で悼んだのは吉永小百合(75才)だ。

 渡さんと吉永は、1966年の映画『愛と死の記録』で初共演。このとき渡さんは25才で吉永は22才。若い2人はすぐに急接近した。

「あの映画には、中尾彬も出演していたんだけど、当時は中尾が小百合ちゃんにラブレターを送ったりして、入れ込んでいた時期でね。その相談相手が、渡さんだったんだよ。初めて出会ったのは広島のロケ地だったはず。渡さんは、大学時代から憧れていた小百合ちゃんの前でガチガチだったそうですよ。素人同然でデビューした翌年のことでしたからね。でも、その雰囲気が小百合ちゃんにはかえって新鮮で、惹かれるものがあったんでしょう」(映画関係者)

 別の映画関係者も、吉永が渡さんに思いを寄せていく様子をよく覚えているという。

「小百合さんは手先が器用でね、手編みの座布団を渡さんに贈っていた。渡さんは『ありがたくないな、こんなものを。恥ずかしくて使えないよな』と頭を掻きながらもうれしそうにしていましたね。当時、小百合さんのことを“カミさん”って呼んでいました。みんなは“小百合ちゃん”だったけど『愛と死の記録』で恋人役を演じてから、渡さんだけ“カミさん”でした。誰から見ても相思相愛でしたよ」

 2人の交際は2年ほど続き、当然の帰結として結婚も考えていたという。しかし、それは許されなかった。『吉永小百合の愛し方』(ベストセラーズ)著者の山科薫さんが語る。

「とにかく、吉永さんのお父さんが猛反対したんです。渡さんとの結婚が、というよりも結婚そのものを認めようとしなかった。吉永さんは清純なイメージで売っていましたから、そのイメージが傷つくことを恐れたのです。吉永さんに専業主婦になってほしがっていた、渡さんのご両親の意向にも吉永さんのお父さんが大反対だったようですね」

 渡さんの評伝『渡哲也 俺』(柏木純一著/毎日新聞社)には、当時を振り返る吉永のこんな言葉が記録されている。

「どちらかがやめれば成立するのでしょうが、役者同士の結婚は絶対に無理だと思っていた」

 それが、吉永の偽らざる気持ちだったのだろう。悲恋に終わった2人だが、互いに結婚した後も、共演者としては息の合うところをたびたび見せてきた。そこに見られるのは、スターとスターだからこそ築ける、誰も立ち入れない関係性だ。

「2人は1998年公開の映画『時雨の記』で共演していますが、これは約30年ぶりの共演でした」(前出・映画関係者)

 そこで2人が演じたのは、プラトニックな恋におぼれる妻帯者と未亡人だった。

「原作は1970年代に書かれた小説で、吉永さん自身が長年、映画化を夢見て企画した意欲作でもありました」(前出・映画関係者)

 そうした役柄での共演は、否が応でも耳目を集める。映画公開の記念イベントでは、『不倫についてどう思うか』という直球の質問も投げかけられた。

 渡さんは受けて立った。

《世の中には本音と建て前があって、もしバレなければあってもいい》と“肯定”すると、《人が人を好きになるという気持ちは誰にも止められない。ずっと恋をしていくのが人間》と吉永も調子を合わせる。

 秘められた恋を肯定する2人は、リップサービスだったのか、役が抜けないのか、はたまた結ばれなかった若き日の恋に思いを馳せていたのか、イベント会場の誰もが2人の真意を探ろうと必死だったという。

※女性セブン2020年9月3日号

レコードタイム◆沢田準の競馬を楽しく

盛岡のダートグレードレースであるクラスターカップでは中央のマテラスカイが勝った。1分8秒5はレコードタイム。

それも盛岡のレコードであるばかりではなくダート1200の日本レコード、ということはJRAのレコードを上回ったということだ。

たしかにJRAのレコードは2008年12月14日のカペラステークスでビクトリーテツニーがマークした1分8秒7でありこれを0秒2破ったというわけである。

JRAの競馬場とNARの各競馬場では走破時計は一般にJRAのほうがかなり早い。これはダートグレードでJRAの馬が走っても同様だ。

それはNARの競馬場は砂が深いことや小回りでカーブがきついなどの理由で早い時計が出ないためである。

しかし例外的に盛岡は早い。これまでのレコードは2017年のクラスターカップでブルドッグボスがマークした1分8秒8とやはり早い。

2014年のJBCスプリントではドリームバレンチノが1分9秒0で走っている。これは盛岡は周回が長く1200はJRAと同じくワンターンだからだ。

同じくワンターンの門別の1200は北海道スプリントカップでのニシケンモノノフの1分10秒4、大井は最速がJBCスプリントでのサウスヴィグラスの1分9秒7だからやはり盛岡の速さは際立っている。

なお大井の現在のレコードはスーニの1分10秒1となっているがこれはトラックの改修のためである。現在のトラックになってのレコードはスーニのものというわけだ。




◆沢田準【競馬を楽しく】
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大義なき合流 玉木代表「金で揉めれば国民から見放される」



田中龍作ジャーナル
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2020年8月19日 23:35



 国民民主党はきょう19日、最高意思決定機関である両院議員総会を開き、立憲民主党との合流を賛成多数で決めた。

 玉木代表、前原元民進党代表、山尾議員らは合流に参加せず新党結成を目指す。

 全国幹事会・自治体議員団等代表者合同会議→ 両院議員総会 → 両院懇談会 → 再び両院議員総会・・・大詰めを迎えた立憲との合流について、協議は6時間余りに及んだ。

 最後に結論を問う形で以下が執行部から提案され、賛成57:反対2で了承されたー

(立憲との合流)新党結党に向けて、最後まで国民民主党全員での新党への参加の努力を続け、

全員参加が叶わない場合には、さらなる大きな塊に向け、円満かつ友好的に諸手続きが進むよう、その対応を代表・幹事長に一任する。
 
 言葉はきれいだが、どうにでも取れる文章だ。前段だけ読めば、全員で立憲に合流するのだから、分党ではない。

 実際、みんなで合流派のある議員は「分党なんか決めてはいない」と話す。

 後段を読めば分党もありうる。玉木代表は両院議員総会後の記者会見で「分割(分党)も含んでいる」と答えた。

 もしかりに分党が認められなければ、合流に参加しない議員は離党となる。資金豊かな国民民主党の金庫に眠る50億円は、合流議員の持参金として立憲に渡る。

 マスコミを賑わす「金目当ての合流」である。総会後の記者会見でも50億円の行方をめぐる質問が相次いだ。

 玉木代表は「お金で揉めるようなことがあったら、それこそ国民に見放される。全額国庫に返納した方がいい」と険しい表情で答えた。

 カネ目当ての勢力に対する牽制とも取れる。


 3年前のあの日と同じ光景を見る思いだった。

 安全保障や憲法観などで政策がまったく違う小池新党(希望の党)に、民進党所属の衆院議員が雪崩を打って移籍しようとしたのである。

 このままでは選挙を戦えないというのが理由だった。

 今回と同じだ。

 だが民進党出身の議員、とりわけリベラル系は、小池ゆりこ党首(当時)の選別に遭い、排除された。

 希望の党は選挙で惨敗、翌年5月、解党。民進党と合併し国民民主党となる。

 今回の合流は「振り出し」に戻ったような感覚を抱かせる。既視感といってもよい。

 大義なき合流はまた同じ結果を招くのだろうか。



◆青木義明【競馬一直線】
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俳優 渡哲也さんが死去 78歳 肺炎のため

2020年8月14日 21時10分
NHKニュース

日活のアクションスターとして多くの映画に出演したほか、「大都会」や「西部警察」などのテレビドラマで人気を集めた俳優の渡哲也さんが、今月10日、都内の病院で肺炎のため亡くなりました。78歳でした。
「大都会」や「西部警察」 刑事ドラマシリーズで人気を不動に
渡さんは兵庫県淡路島出身で、昭和40年に映画「あばれ騎士道」でデビューし、日活のアクションスターとして活躍したあと石原裕次郎さんのプロダクションに入りました。

その後、「大都会」や「西部警察」など、刑事もののテレビドラマシリーズで人気を不動のものとし、裕次郎さんが亡くなったあとは、いわゆる「石原軍団」を率いて幅広く活躍しました。

NHKでは大河ドラマ「義経」で平清盛の役やスペシャルドラマ「坂の上の雲」で東郷平八郎の役を演じるなど、凛(りん)としたたたずまいと高い演技力で人気を集めました。

平成17年には紫綬褒章を、平成25年には旭日小綬章を受章しています。

渡さんは、平成27年に急性心筋梗塞で手術を受け、その後も肺気腫などを患い、自宅で療養しながらリハビリを続け、テレビコマーシャルへの出演などを続けてきました。

石原プロモーションによりますと、渡さんは、今月10日、都内の病院で肺炎のため亡くなりました。
本人の希望で家族葬に
渡哲也さんが亡くなったことについて、石原プロモーションは「長きにわたり病との闘いの末去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」とするコメントを14日午後7時半すぎ公式のツイッターに掲載しました。

この中で、葬儀については静かに送ってほしいという故人の強い希望により、14日、家族葬という形で執り行い、お別れの会やしのぶ会なども行わないとしています。

また、香典や弔電などの儀も故人の遺志により、辞退するとのことです。

そのうえで、「何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」としています。
悼む声が相次ぐ
インターネットのツイッターなどには、渡さんと交流のあった著名人から死を悼む声が相次いでいます。

このうち、俳優の宍戸開さんは「“また一人日活俳優がなくなりました・・・”慎んで渡哲也さんのご冥福をお祈りいたします」とツイッターに投稿しています。

また、お笑い芸人のドランクドラゴン塚地武雅さんは「渡哲也さん…おいしいごはんというドラマで師弟の役でご一緒させていただきました。椅子を手刀で割るというシーンで本番、いきなり頭で割る姿を見て驚きとサービス精神と漢気を感じ、プロだ!僕もこうならなきゃいけない!と思ったのを覚えています!」また、「渡哲也さん、その節はお世話になりました!1クールという短い時間でしたが近くでいろいろ見せていただいたことは勉強になることばかりで忘れません!謹んでご冥福をお祈り申し上げます!」と投稿しています。

また、俳優の高橋克典さんは自身のブログに渡哲也さんと一緒に写っている写真を掲載し「心よりご冥福をお祈りします」とコメントしています。
高橋英樹さん「哲!早過ぎるよ!」
渡さんと同じ時期に日活で活動し、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」などの作品で共演した俳優の高橋英樹さんは「突然の訃報に、大変驚きました。私の中では、いつも元気な彼の姿しか思い浮かびません。共に日活映画時代の青春期を過ごした仲間。哲!早過ぎるよ!お疲れさま!の言葉しか見当たりません。ご冥福をお祈り致します」というコメントを出しました。
街でも悼む声
俳優の渡哲也さんが亡くなったことについて、渋谷の街では死を悼む声が聞かれました。

50代の会社員の男性は「『西部警察』など、昔からドラマでよく見ていた俳優さんです。最近になって、あまりテレビで見かけなくなっていたなと思っていました。78歳で亡くなられたというのは、今の時代ではちょっと早すぎるのではないかと残念です」と話していました。

また、渡さんと同い年の78歳という理容師の男性は、「亡くなったニュースを知らなかったので、聞いてびっくりしました。同じ世代の人間からするととても寂しい気持ちです」と話していました。

夫婦で渋谷を訪れていた50代の男性は、「渡さんといえば、西部警察のイメージですね。当時活躍した俳優の人たちが皆さんお年をとられているので、だんだん寂しくなっていきます」と話していました。

また、女性も「最近までお酒のCMなどにも出演していたと思います。まだ年齢もそこまで高齢というわけでもなかったので、もっとテレビで活躍されると思っていました。とても残念です」と話していました。

【香港】周庭さん「日本に留学したい」 弾圧は思いもよらぬ早さでやってきた



田中龍作ジャーナル
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 弾圧は想像以上の早さでやってくる。周庭さんが来日し、明治大学で講演したのが2019年6月12日だった。

 学生であふれ教室に入りきれないほどだった。日本の学生を相手に周庭さんは送中条例の危険性を訴え、「施行させないような運動をしている」と話していたという。

 これが最後の来日となろうとは、本人はじめ誰も夢想だにしていなかった。

 それから9日後の6月21日、学生や市民数万人が香港警察本部を包囲した。周庭さんはこのデモを扇動したとして逮捕される。8月30日のことだ。

 起訴され裁判に掛けられることになった周庭さんは出国禁止となる。昨年12月あるいは1月に来日を予定していたが、それも不可能になった。

民主派逮捕を受けて日本の国会議員が香港と連帯する集会を開いた。=12日、衆院会館 撮影:小杉碧海=

 昨年12月19日、立憲民主党・国際局長の亀井亜紀子議員は情勢視察のため香港を訪れた。周庭さんと立法会の会議室で面談した。

 周庭さんは立法会議員で民主派の區諾軒氏の秘書を務めていたが、區氏は議員資格を剥奪された。彼女は亀井議員に「日本に留学したい。仕事なくなっちゃたし」と語ったという。

 それから約8か月後の8月10日、周庭さんは国家安全法違反の容疑で逮捕される。「勾結外國勢力(外国勢力)と結託した」というのだ。

 昨年6月にあった警察本部包囲で周庭さんはデモ扇動罪に問われており有罪判決が出ているが、量刑は今年の12月にも言い渡される。

 前の事件で判決が充分に言い渡されていないうちに、次の事件で逮捕される。それも今年6月末に新設されたばかりの国家安全法違反で。

 11日夜、保釈された周庭さんは「心の準備ができていないうちに逮捕された。これまで4回逮捕されたが、今回が一番怖かった。一番きつかった」と語った。

 弾圧は思いもよらぬスピードで、これでもか、これでもか、と押し寄せてくる。きょうの香港は、明日の台湾、明後日の日本。対岸の火事ではない。

      ~終わり~




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ディアドラ◆沢田準の競馬を楽しく

ディアドラのナッソーステークス連覇は残念ながらならなかった。7頭立て7着と最下位に敗れた。最後はマーフィー騎手は抑えての競馬であの着差だから悲観する結果とは言えないかもしれない。

しかし前走のエクリプスステークスが7頭立ての5着に次ぐ敗戦でありさすがにそろそろ限界かとも思わされる。それでもまだ帰国する様子はないようで凱旋門賞まで戦い続けるのだろうか。

それにしてもディアドラのここまでの活躍は驚くばかりだ。3歳時に秋華賞を勝ってG1初制覇。4歳になると京都記念を使っていよいよ初めての海外遠征がドバイのドバイターフで3着と好走。

日本でクイーンステークスと府中牝馬ステークスを勝って二度目の外国遠征、今度は香港で香港カップでこれも2着と好走した。

ドバイと香港での再度の好走で本格的に外国のレースへの挑戦が決まった。中山記念を叩いてドバイターフ、香港でクイーンエリザベスⅡ世カップ、日本には戻らずイギリスへ渡ってプリンスオブウェールズステークス。

そしてついにナッソーステークスで外国のG1制覇となったのである。その後も愛チャンピオンスエークス、英チャンピオンステークス、香港ヴァーズと連戦を続けた。外国で戦ったレースはすべてG1である。

香港の後も日本には帰らずイギリスに滞在。6歳時の今年はサウジアラビアで2着のあとイギリスに戻って2戦である。

日本馬の外国のレースへの挑戦は当たり前になったがほとんどは日本からのスポット参戦でディアドラのような長期のものはエルコンドルパサー以来だ。

しかもエルコンドルパサーは凱旋門賞を狙ってフランスに滞在しフランスで4戦しただけだったがディアドラは各国のレースに出走した。

それではなぜディアドラにこのような長期遠征が可能だったのか。それはもちろん個人オーナーだからである。

馬を長期にわたって外国に置いておくには多大の費用が掛かる。その負担に耐えることのできるオーナーでなくてはならない。

クラブオーナーでは外国に挑戦するとしてもスポット参戦がやっとだ。エルコンドルパサーも個人オーナーだった。

またクラブオーナーでは牝馬には定年がある。決まった年齢になれば引退しなければならない。

ディアドラと同年齢のリスグラシューは有馬記念を圧勝しその後のさらなる活躍は確実と思えたが5歳一杯で引退した。

しかしディアドラは6歳になっても依然現役を続けている。個人オーナーの強みというわけだ。




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木村和士騎手◆沢田準の競馬を楽しく

カナダのウッドバイン競馬場に二人の若い日本人騎手がいることはご存知の通りだ。福元大輔騎手と木村和士騎手である。

二人ともジョッキーベイビーズの経験者でその頃から将来は騎手を目指していた。

しかし福元騎手はJRAの競馬学校を受験したが合格できなかった。また木村騎手は合格しながら中退している。

というわけで二人とも日本では騎手になることはできなかった。

しかしどうしても騎手になりたかった福元騎手は、全くあてもなく会話もできないのにウッドバインに行き、厩舎に入ってついに騎手免許を取得したのである。

木村騎手は福元騎手を見てやはりウッドバインに向かい、同じように騎手免許を手に入れた。

日本ではJRAにしてもNARにしてもきちんとプログラムされた騎手養成の教育を受けて騎手となるのに比べて、この二人は独自に騎手になったようなものであり驚くべきことだ。

しかも単に騎手免許を取っただけではなく好成績を上げた。二人は2018年のカナダのソヴリン賞の見習騎手部門でノミネートされ最優秀見習騎手には木村騎手が選ばれた。

さらに2019年には木村騎手は今度はカナダを飛び越えて北米のエクリプス賞の最優秀見習騎手賞を受賞と全く驚くべき活躍を見せてくれたのだった。

そして先日にはついにカナダのグレードレースで初めての勝利を得た。7月18日のウッドバインのG2ロイヤルノースステークスをレイディグレイスで勝ったのだった。

これまでステークスは勝っており、実際に8月1日にはグリーンウッドステークスを勝っているが、ついにグレードレースを勝ったのだった。

なおグリーンウッドステークスは総賞金15万カナダドルというグレードレース並みのレースだが福元騎手が2着に入っており日本人騎手のワンツーだった。

このように木村騎手だけではなく福元騎手も活躍している。今年は191戦20勝だ。一方の木村騎手は258戦35勝とさすがだが。



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枝野さんと玉木さんを比べてみた
2020年8月2日 21:49

田中龍作ジャーナル
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 立憲と国民の合流協議がいつ果てるともなく続く。新党の党首にふさわしいのは誰か。現実的な選択肢として立憲の枝野代表と国民の玉木代表を比べてみた。
 
 記者会見で判断する限り、枝野さんには対話の精神はない。わずか十数人の記者を説得できない政治家が、1億人を超す国民に向かって話しかけることは不可能だ。

 枝野さんは追及されると、聞き取りが不可能なほどの早口で理屈を並べ立てる。

 2011年に起きた福島の原発事故で、枝野官房長官(当時)が記者会見で言った「ただちに影響はない」は、今なお多くの国民の心にどす黒い不信感となって宿る。

 3月5日の定例記者会見で田中は枝野さんに質問した。「安倍首相の疑惑隠しとあなたが言い放った『ただちに影響はない』は、どこがどう違うのか? 福島の人が分かるように説明して下さい」と。

 枝野さんの答えがふるっていた。「それは一部を切り取ったもので、私の発言の真意ではない」と。

 枝野さん得意の詭弁に備えて、田中は国会事故調(2012年5月27日)当時の拙稿を携えていた。

 事故調に出頭した枝野さんは福島の委員に謝罪しているのだ。

 国会事故調との矛盾を田中が突き付けると枝野さんは「あなたと議論してるんじゃなくて、あなた私に質問してるんですよ」と逆ギレした。

 立憲公式ビデオの37分58秒目ごろからを見て頂ければ様子が分かる。      ↓ 
    ※3月5日、記者会見 

※国会事故調 2012年5月27日


 5月29日の記者会見では、枝野さんの口からさらに驚くコメントが飛び出した。
 
 前回(2016年)の都知事選。告示3日前の7月11日、午後5時30分頃、枝野さんと小池晃・共産党書記局長は、宇都宮健児弁護士をホテルニューオータニに呼び出し、事実上の撤退を迫った。

 田中がこの事実関係について問うと、枝野さんは「宇都宮さんとは会ったこともない」「事実ではありません」とトボケたのだ。

 (宇都宮さんへの撤退要請に同席していた小池晃さんは定例記者会見で事実関係を正直に認めている。)
 
 5月29日、枝野代表記者会見 37分08秒目ごろから
 

 ところが枝野さんは宇都宮さんと会っていたことが判明する。

 次の記者会見(7月1日)で田中がそれを質すと、枝野さんは「俄かに記憶を喚起できなかったため」「記憶にないことをお話ししたらその方が不誠実」と答えた。

 記憶にないのであれば、なぜ「事実ではありません」と言えるのだろうか。

 相手が知らないと踏むとまず嘘を突く。ウソが露見すると詭弁でかわす。安倍首相とどこが違うのか。


 玉木さんは何を聞いても真正面から答える。第一ハグラかしたりはしない。

 永田町の取材歴が半世紀あまりの老練ジャーナリストが与太な質問をする。

 質問内容たるや「なぜ今ここで」「なぜ国民民主党に」という事柄だったりする。しかも国会議員を呼び捨てにしながら。

 与太な質問にも玉木さんは、一生懸命に答える。

 司会者が「では、これで玉木代表の記者会見を終わります」と告げて玉木さんが引き揚げようとする。

 そのタイミングで件の老練ジャーナリストが、またまた与太な質問をする。

 それでも玉木さんは立ち止まって体を正対させて答えるのだ。気の毒になるほどである。

  ※国民役員記者会見一覧

 枝野さんとの大きな違いは二つ。対話の精神があることと経済に明るいことだ。

 若い頃、国税局勤務を経験し、庶民から税金を取ることの厳しさを身をもって知っている。

 財政出動の提言も具体的で分かりやすい。経済オンチと揶揄される枝野さんとは大きな違いだ。

 読者諸賢は公式動画を見て、どちらが野党の顔としてふさわしいか、判断してほしい。

    ~終わり~

シベリウスが結ぶ縁◆竹内康光【馬よ草原に向かって嘶け】

7月26日の札幌メインは大雪ハンデキャップ、そこにシベリウスという馬が出走してきた。オーナーは小説家で日本ペンクラブの会長も務めた浅田次郎氏、近6走は全て着外だったが昨年の7月28日に同じ札幌千七で2勝クラスを勝ち上がっている夏馬。追い切りで3歳未勝利馬を3秒追走して0秒4先着と、一変の条件は揃っていた。

浅田次郎氏は今のところシベリウスが出世頭だが、これまで30頭近くの競走馬を所有して主に美浦の小桧山厩舎に預託してきた。印象深いのはクレヨンという牝馬で、新馬戦はその日に川崎のテンセイフジでターコイズSに挑戦した酒井忍騎手が騎乗。合計21戦未勝利だったが、最後は南関東で走ったのでよく覚えている。

浅田次郎氏の著作は名作揃いで、中でも「草原からの使者」(同作を表題にした短編集に所収)は競馬ファン必見の佳作。競馬ファンの長男に薦めたらハマってしまい、今では暇さえあれば浅田次郎氏の作品を読み漁っている。近作のお勧めは「流人道中記」、読売新聞で完結して上下巻が出版されたばかりだそうだ。

「草原からの使者」の舞台は1973年5月27日、ハイセイコーが単勝支持率66%を集めたダービーの当日。自分にとっては実際に体験したことだけれど、1976年生まれの長男にとっては歴史上の一日。曰く「その日の府中にいたような気になった。」という感想を漏らしたくらいの筆致を、ぜひご堪能いただきたい。

話を戻してかのシベリウス、高名な作曲家の名を冠したこの馬は昨年だけでなく2017年にも7月に勝ち鞍を挙げている。追い切りの短評も「末の伸び素晴らしい」とあったので馬券を買ったら、いい脚で伸びてきて2着。夏男ぶりを三たび発揮して当たり馬券をプレゼントしてくれた。

当代のシベリウスは実は3代目で、初代は1975年に生まれたスピードシンボリ産駒の牝馬、ミスター競馬と言われた野平祐二師が管理した。オーナーは和田正輔氏(シンボリ牧場の遠縁で、息子は和田正道元調教師・孫は和田正一郎師)で、勝負服は浅田次郎氏と同じ星散らし(袖の柄が違うけれどとてもよく似ている)。

2代目シベリウスの生産者は茨城県の栗山道郎さん、芦毛のダービー馬・ウィナーズサークルを生産した栗山牧場の一族。ウィナーズサークルの甥にあたるクールアイバーは大井の金盃を制していて、自分の馬主名義を繋ぐために南関東で馬を共有した仲でもある。シベリウスが繋ぐ縁を辿りつつ原稿を書いた、日曜の夕刻だった。

◆竹内康光【馬よ草原に向かって嘶け】
http://bit.ly/17MDXV7

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